私の海外経験
洛友会会報 206号

 

私の海外経験

安本 吉雄(昭49年卒)

 京都大学には昭和45年に入学し、昭和51年に大学院を修了しました。既に28年以上経過しておりまして、疎水のほとりで飲んで騒いだ、京都大学の学生時代は遥か昔のこととなりました。大学の4回生の卒業研究、大学院の2年間と通算3年間、川端昭先生にお世話になりました。量子エレクトロニクス講座ということで、ZnOの薄膜作成やその圧電効果を用いた表面波フィルターの作成など、今思い出してもかなりエキサイトな分野であったと思います。
 大学院修了と同時に松下電器に入社しました。入社後は、全く別の分野の技術者としてスタートしました。テレビ受信機の回路屋としてスタートしたのですが、実は大学時代の研究と全く関係なかったのではなく、たまたま当時表面波フィルターがテレビの中間周波フィルターに使用され出した頃だった、という関係があったかもしれません。当時は、テレビ受信機の回路が、トランジスタからアナログのICに置き換わる頃で、最初にやった仕事はこのアナログICの評価でした。
 おかげさまでその後、アナログ・デジタルLSIの設計、画質評価、放送規格の提案、デジタル画像処理など幅広い技術分野と、さらには海外経験を積むことができました。実は、大学時代は英語の論文を読むことはあっても書くことはほとんどなく、ましてや会話をすることなど皆無であったのですから、不思議なものです。
入社してまだ日が浅い頃、たまたま米国の今で言うベンチャー企業から特許の売り込みがあり、それを検討した結果、上司と一緒に米国へ出張することになりました。上司は一足先に出発したので、その後を追いかけて一人で、Pan Am 機に乗り込みました。これが最初の海外出張でした。NYの空港に到着し、質問をされることなく税関をすり抜け、上司の顔を見たときには、本当にほっとしました。実は当時は全く英語の会話ができませんでした。
 その後縁があって、米国、欧州、シンガポールにおいて現地の技術者との交流を30年近く経験したことになります。今から振り返ってみると、日本の電機産業における技術の歴史を覗いて来たような気がします。
 私が入社する前の時代になりますが、1950年代から60年代は、ともかく「追いつけ、追い越せ」というスローガンの元、欧米の物まねで技術を習得していた時代で、がむしゃらに走ってきた時代であったと思います。私たちの先輩の時代であります。実際、入社当時に、部長の話を聞いたことがありますが、「RCAのテレビの回路図を入手するなり、ともかく実際に作ってみた。夜遅くまで頑張ったもんやで。しゃーけど、原理はわからない部分もあったな。うまくいったので商品化したけどな。」という話がありました。
 1970年代から80年代は民生用電機機器のような、日本の会社がひととおり技術を習得し終えた分野では優位に立ちました。ソフトウエアなど特定の分野ではまだまだということで、松下電器でも欧米を中心とした大学への留学制度が発足しました。
 私の本格的な海外経験は米国が最初でした。これはこの海外留学制度にのったもので、ロスアンジェルスのUSC (University of Southern California) に1983年から2年間研究員として滞在し、コンピュータビジョンの研究をしました。当時は画像と画質に興味があって、ここを選んだのですが、実はここで初めてインターネットを経験しました。すでに当時の米国の大学では、白人の学生は少なく、そこには中国や韓国から来た非常に優秀な留学生が大勢いました。
 帰国後1987年ごろ、米国から新しいテレビの方式を検討する機運が出てきました。また欧州でも、新方式が検討されていました。当時、松下電器はシリコンバレーに唯一の海外研究所がありましたが、米国のテレビの研究拠点は東海岸ということで、1990年になり、NJ州にATVL (Advanced TV Laboratory) を設立しました。同じ頃、欧州でも現地でのプレゼンスが重要と、ドイツのフランクフルトに、PERDC (Panasonic European R&D Center) を設立しました。日本でも同様に、テレビの新規格の動きがありましたので、それにも参画しながら、米国とドイツの海外研究所の窓口となり、かなり頻繁に出張をこなしておりました。米国やドイツの技術者の気質もある程度理解していたように思います。
 米国では、日本からの技術的な提案で少し納得がいかなくても、ともかくやってくれるところがあります。ドイツではこれでは全くだめで、ほとんど日本からコントロールができません。
 日本ではハイビジョンの開発と平行して、現行のテレビ方式の改良・改善もEDTV (Extended Definition TV) として検討されていました。私はこれにも従事していたのですが、1994年までには一段落していました。その年の秋ごろ上司から突然呼び出され、シンガポールへ行けといわれ非常にショックでした。というのは、それまで欧米の研究所の窓口業務をしていましたが、アジア行ったことはありません。アジアの技術者はどういうものか、全くわからなかったからです。
 松下電器のシンガポールの研究所は1990年に設立されたもので、2代目の所長として、1995年、年明け早々に赴任しました。それから2000年まで、私はシンガポールの研究所の責任者としてシンガポールの技術者と深くつきあいました。
 1990年代のいわゆる失われた10年は、日本の国際競争力がどんどん低下した時代でもあります。シンガポールでは今でも非常に高い国際競争力を誇っていますが、その理由のひとつを見たような気がします。まず第一に技術者が中国などから常に流れて来て、その一部は欧米まで流れていきます。技術者の向上意欲が非常に高いわけです。ジョブホッピングと言われますが、30歳になるまでに、2ー3回会社を替わるのが通常です。そのたびに新しい経験と知識を身につけて飛躍します。中国系の技術者は、英語、北京語と出身の中国語方言に加え、マレー語や日本語など4ー5ヶ国語をこなせます。ともかく技術者としての「プロ意識」が非常に高いのです。日本の技術者との落差を目の前に見たとき、愕然と致しました。
 今の日本では、年功序列賃金制度が崩壊し、また成果主義が本格的に導入されるに至り、徐々にこのようなシンガポールのような状況に近くなりつつありますが、まだまだといわざるを得ません。これから技術者として身をたてられる若い人たちはグローバル化時代の技術者として、ぜひアジアの隣国を見習っていただきたいと思います。

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