教室だより(4)
洛友会会報 217号


上之園 親佐 先生を偲んで

上田 v亮 (昭34年卒)


 本学名誉教授上之園親佐先生は、平成19年3月14日に、享年89歳でご永眠なさいました。先生のご逝去を悼み、謹んで追悼の辞を述べさせていただきます。
 先生は大正8年3月27日、鹿児島県川辺郡川辺町でお生まれになりました。鹿児島県立川辺中学校、佐賀高等学校理科甲類を経て、京都帝国大学工学部電気工学科を昭和18年9月にご卒業なさいました。同年10月のご卒業と同時に満州電業株式会社に入社され、電力機器の試験業務に従事される傍ら、大連工業学校講師を兼任なさいました。昭和20年8月に臨時召集により現地で応召され、敗戦と同時に会社は解体され、北朝鮮にて捕虜の経験をなさっておられます。昭和21年10月に佐世保港に復員、帰還され、翌年7月商工省東京商工局に勤務、昭和22年12月日本発送電株式会社へ入社され電力技術研究所に勤務なさいました。昭和26年5月の電力再編成に伴う日本発送電株式会社の解体により関西電力株式会社人事部付け、財団法人電力技術研究所へ出向され、同研究所が昭和27年11月に(財)電力中央研究所と改称されました。
 電力中央研究所の創立時期は、日本の電力需要が10%以上の高度成長が続いており、電力設備の増強は間に合わず、在来設備の老朽化に拍車が掛かり、事故が頻発しておりました。そこで、極力事故を防止し、事故原因を究明することが研究所の緊急課題でした。研究者・研究予算の極めて厳しい状況の中で上之園先生の取り組まれた課題は水力発電機の事故原因解明、すなわち発電機の耐雷対策・発電機巻線の絶縁設計と試験法の制定でした。
 実験設備も整っていなかった時代に、発電所の現場で、自ら陣頭指揮を執りながら、発電機内部の電磁現象を、稼動中の発電機を対象に実測を繰り返し行われ、現象そのものの実態を解明することによって対策法を樹立なさいました。そのために模擬的な雷を発生させるインパルス発生器を、有り合わせの設備を利用し、私たちが教養部の物理実験で習った基礎的な原理などを徹底的に活用され創意あふれた工夫を凝らして装置を製作され、東京・東北電力株式会社管内の、あちらこちらの水力発電所で2,3日間にわたり不眠不休で繰り返して実験なさいました。現在では暴挙と非難されるであろうこれらの一連の実験は、日本初のみならず世界初の発電機の特殊な運転を現場で行った実証試験でした。
 これら一連の実験を肌身で会得された主な結果は、発電機のサージインピーダンスの測定、ならびに雷サージが発電機巻線の出力側数本のコイルで受止められ、過渡的に異常な高電圧がかかり絶縁が破壊されることを突き止められたことや、発電機巻線の温度特性と熱劣化特性の解明でした。当時は、これの諸問題に対するデータは極めて少く、殆ど在りませんでした。このような電力機器および絶縁物の特性に関する先生のご薀蓄は、その後、雷の被害と対策(絶縁)に関する技術分野の諸規格に反映され、超々高電圧(50万ボルト)送電システムの基盤技術の確立、安定した電気エネルギー供給システムの構築へと発展を遂げました。
 先生の信念は「実験を行ない実現象を把握する(実態を見極める)。実測結果をもとに理論的解明と即座に対症療法を案出し実行する。それらの中で成功したものに対して理屈は後から追ってくる。」と要約されます。
 ここまでは、主として技術的な側面を述べましたがこのような大規模な、しかも社会的に大きな影響のある仕事を成し遂げられたのは、先生が偉大な指導者、良き管理者であったが故のことに疑いの余地はありません。現場実験で先生の指揮に従った部下の方々の先生に対する信頼と尊敬の気持ちは大変大きかったと伺っております。これは、大学で先生から直接ご薫陶を賜った私たちが共有している先生の暖かい包容力のある人間性によっても裏づけられます。
 先生はまた、当時先生の上司であられた電力の鬼と呼ばれている歴史上の人物松永安左ェ門(当時、電力中央研究所)理事長の信任が最も厚かった方のお一人でした。理事長は頻繁に上之園先生を呼び意見を求められたとのことです。そのとき、上之園先生が短刀直入にご説明され、理事長がお気付きでないことを指摘され納得されますと、理事長は立ち上がり有難うと頭を下げられ握手を求められたとのことです。
 先生は、昭和31年6月に、一連の成果をまとめられ博士学位論文「発電機衝撃電圧試験に関する研究」を提出して工学博士の学位(京都大学)を授与されていらっしゃいます。私たちが学生だった頃、林 重憲先生から過渡現象の講義で習った教科書「演算子法解説(電気書院、昭和29年)」第3章 3.6節に、定電流回路を利用する過渡インピーダンスの実測ー第二京大法ーが記述されていますが、これは上之園先生が正に現場で実験を行ないデータを解析しておられたときに、先生がご自身で命名された方法そのものであることを記させて頂きます。
 先生は昭和42年1月に母校電気工学第二学科の電力系統工学講座担任教授として迎えられ、電力工学分野の教育、研究に携わられ、発電機の脱調現象(脱調時に発電機内部に生じている電磁現象)、送電系統の雷害事故低減法と対策、ならびに電力系統の安定運用等に関する研究を指導され電力工学分野において現在指導的な立場で活躍中の多くの人材を輩出なさいました。
 先生は、昭和53年4月、他の講座に所属していた筆者を上之園研究室の教官の一人に加えて下さいました。筆者の先生に対する最初の印象は、威厳を保たれた近づき難い感じを抱いておりました。しかし、直接先生に接してご指導を受けるにつれ、先生のご見識は高く、度量は大きく、物事の実態(真贋の程)を素早く読み取られる卓越した能力をお持ちで、かつ人間としての暖かい思い遣りのお心を兼ね備えられている指導者でいらっしゃることを実感し、尊敬の念が膨らんで参りました。先生は実験を伴う実学を偏重されているように誤解されている面は否定できませんが、それは外から見え易い部分で、先生は本来在るべき姿の基礎研究を大切にする強い志と夢を秘めておられました。
 筆者のみならず、先生からご薫陶をうけた門下生一同(学外の方も含む)は学術、技術は言うまでもなく先生に巡り合うことができたことによって、人生が明るく広く豊かになりましたことを実感し深くお慕いし感謝しております。
 筆者は先生にお話を伺った後は、何時も清々しい気持ちになれましたことが、昨日のことのように想い出されます。先生のお教えを真似ることにより、その後の人生が上向き志向になったことは事実でしたが、残念ながら器の大きさが異なるため真似ることができずに残念な思いをしたことも少なくありません。
 筆者がお世話になった当時、研究室には既に模擬電力系統の実験設備が備わっており、発電機の脱調現象を直接実測することができました。この当時でも、現在でも、電力会社で実系統を運用なさっておられる現場でも、世界中で、脱調現象そのものを見ることが出来る実験設備の在るところは非常に少ないのが現実です。先生が、大学の一講座内にこのような設備を導入されたのは、現象そのものに直接触れることが科学、技術者を育てる第一歩であるとの哲学を実践されたことの証だったと考えております。
 先生は京都大学ご在職中、学内では学生部委員会委員、京都大学技術顧問、へリオトロン核融合研究センター、工学部付属イオン工学実験施設、大型計算機センター協議委員会、京都大学評議員、などの要職を併任、兼任なさいました。先生はこれらの委員会では大所高所から現実を直視した正統な数々のご発言をなさり、健全な大学運営に大変ご尽力なさいました。
 中でも電気系教室にとりまして特筆すべきことは、大学紛争の際に電気系教室が危機に陥ったとき、先生が交渉に臨まれ収拾されましたことは、事情を知る方々の間では上之園先生は電気系教室の救世主だったとの伝説になっております。筆者は事の詳細は部分的にしか存じませんが、推し量りますに、実態分析の深さと物事の真髄の把握、相手の立場をも理解されての本来在るべき姿の実現可能な妥協案の提案と説得、人間としての度量の大きさと暖かい心が相手に伝わった結果と察しております。
 また、学外では文部省大学局科学官、電気学会では同期機標準特別委員会や絶縁試験法標準特別委員会の委員長、日本工業標準調査会臨時委員、日本学術振興会流動研究員審査会委員、科学技術庁航空電子等技術審議会委員、電気学会副会長および会長、日米科学技術協力事業核融合分野研究計画委員、文部省学術審議会核融合特定研究専門委員会などの委員、日本学術会議会員(第5部)、通産省資源エネルギー庁大都市電気供給施設検討委員会委員長などの要職を務められました。これら学外でのご活躍を通して、京都大学に多くのセンターや施設が多大な恩恵を受けましたことは先生の大変なご尽力の賜物でした。先生は京都大学のみならず、将来のわが国の科学技術の在り方にも腐心され数々の有益な提言をなさってこられ大きなご功績を残されました。
 先生は昭和57年4月に京都大学を停年退官され、同時に京都大学名誉教授の称号を授与されていらっしゃいます。その後は、関西電力株式会社顧問、(財)電力中央研究所顧問、ならびに摂南大学客員教授などを務められ、電力分野の発展に長年のご経験を継承されるべく後進の育成に務められる傍ら日本の科学技術の健全な発展に並々ならぬご尽力を果たされました。
 先生はいろいろなご趣味をお持ちでしたが、中でもゴルフは特にお好きで、良くコースを回られていらっしゃいました。特に、研究室卒業生の同窓会でゴルフに興味を持つ人たちと、春と秋の年二回「上之園杯」と称するコンペを楽しんでこられました。このコンペは先生が体調を崩された後、現在も続いております。
 先生は、今から約9年前になりますが、われわれ門下生が、先生の傘寿のお祝いをしようと計画をした頃に、体調を崩されご入院なさいました。その後、奥様やお嬢様をはじめお家族の手厚い介護が続いてまいりましたが、残念なことに、去る3月14日に肺炎によりご永眠なさいました。先生のお誕生日が3月27日ですので、米寿目前のことで、まことに残念でした。
 先生がこの世に残されましたご業績はあまりにも偉大で要約する紙面もございませんが、過去を振り返らず、将来を見据えて先生は天国から「真の研究者、技術者を志す者よ、計算機に頼る事を否定はしないが、現実はそれほど生易しいものではない。身をもって実験を行い実態を把握することが大切なのだ!」とおっしゃっておられる声が聞こえて参ります。これは、貴重な警鐘であります。 
 上之園親佐先生、長年に亘っての暖かいご指導を下さいまして有難うございました。科学技術、特に、電力工学分野に捧げられました先生の情熱と、社会全般の行く末を見据えて数々のご提言に対しまして深甚なる敬意を表し、お別れのご挨拶に代えさせて頂きたいと存知ます。先生のご冥福を心からお祈りいたします。どうか安らかにお眠り下さい。


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