中部支部2代目
 総務幹事始末記
洛友会会報 200号


中部支部2代目総務幹事始末記

石川進(昭26年卒)

 初代中部支部長は名工大学長の清水勤二氏(大12年卒)。清水氏の逝去により二代目支部長に本多静雄氏(大13年卒)が就任されました。昭和62年卒寿を期に現支部長大野彰氏(昭25年卒)にバトンタッチされるまで実に30年、長期支部長でした。
 本多さんは日本電話施設(株)や(株)FM愛知を創設され、支部長にご就任当時既に中部財界の重鎮として、又陶芸の研究・収集そして狂言の創作と公演(自演も含む)は趣味の域を脱していました。氏が技術者であることよりも、趣味の方が有名と言う中部財界の超有名人でした。
 総務幹事は支部開設以来ずっと古田久一氏(昭和6年卒、当時名古屋市交通局電気部長、退職後は名城大学教授)でした。「支部の活動が低調だ」と色々"活性化案"を打ち出され、我々にも協力を求められましたが、成果は今一でした。当時私は社会人七〜八年、仕事も忙しく同窓会に出ても長老ばかりで、余りなじめず、行事も欠席がちでした。
 中部支部最大の行事は"総会"と"秋の家族同伴行楽会"です。たまたま私が名古屋鉄道に在職、勤務地が名古屋駅前と言う事もあって、何となく古田さんのお手伝いをしていました。古田さんは昭和61年4月、80歳で急逝されたのですが、「俺も年だが、本多さんが支部長をやっておられる以上、総務幹事を止めるわけにいかん。」と頑張っておられました。古田さんは本多さんと年齢も近く、何事も"阿吽の呼吸で"実に名幹事でした。行事も本多さんに"おんぶに抱っこ"が多く、春は本多邸の"陶芸と観桜の会"で支部幹事会を済まし、秋は日本電話施設主催の"志摩半島の五ヶ所湾(七日島)の観月会に便乗と言ったものが定番でした。
 その古田さんが本当に「急逝」されたのです。急逝の一週間前、ベルサロン(日本電話施設の8階、同社社員・OBの溜まり場で、ここに中部支部の事務局を置いていた。)で小生と碁盤を囲んだわけですが、お元気そのものでした。葬儀には会員有志が参列、本多さんが弔辞を読まれ、氏のご冥福をお祈りしました。 中部支部は本多さんと古田さんで持っていたようなもの、古田さんの代わりは余人には出来ない事ですが、結局「古田さんとお付き合いの深かったお前がやれ」と後を引き受ける羽目になってしまいました。
 総務幹事といっても、実務はFM愛知の前原さん(昭和28年新制卒・現在同社社長)がやって頂くので、そう負担というわけではありません。ただ古田さんのやり方を踏襲しただけ、会員の皆様に多大なご迷惑をおかけした事をお詫び申し上げます。私が総務幹事を引き受けて1年後、本多さんは支部長を大野彰氏に譲られ、引き続き顧問として我々をご指導頂きました。そして平成11年5月ご逝去、享年百一歳の大往生でした。大野さんも既に16年の長期支部長を勤められました。そして来年度総会にて後進に後を託される事になっています。
 私と古田さんと違った事と言えば、"秋の家族同伴行楽会"が遠出ができる様になった事ぐらいでしょうか。京都、高山そして平成13年度の"世界遺産・白川郷"です。大野さんが岐阜乗合バスの社長で、お値打ちにバスが使えたのが幸いしました。そして私が、総会や行楽会などの行事で「校歌代わりに"琵琶湖周航の歌"を歌おう」と提案し、ご了承頂きました。京都大学には昭和15年制定の素晴らしい学歌があるが、曲が荘重そして歌詞が若い人になじめない為か、殆ど歌われないのが実情です。創立百周年事業で学歌が募集されて出来なかった経緯があります。周航の歌は三高の寮歌だが、実際に一部京大生(OBも)間で校歌代りに歌われている事、そして京都大学と三高は同根(京都帝大は明治30年、三高の前身・第三高等中学校を母体に生まれ、第三高等中学校は第三高等学校になった。琵琶湖周航の歌は大正7年三高生の小口太郎が作詞、(曲は当時歌われていた吉田千秋作曲"ひつじ草"を借用)最もよく歌われた寮歌の一つです。そして戦後の学制改革で旧制高等学校は消滅、三高は京大に吸収されました)と言う理由です。
 私も数年で古田さんの亡くなられた年になります。大野支部長交替も決まり、新体制が確立されるでしょう。そして総務幹事も若い人が、新しい感覚で支部を運営して頂ける事を期待しつつ筆を擱きます。

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