父として思うこと
洛友会会報 201号


父として思うこと

引馬章裕(平5年卒)

 「パパ、かいしゃいかないの」休みの日にパジャマでのんびりしている私に対して、もうすぐ3歳になる我が家の娘が言った。
 平日は忙しく働いており、娘とのコニュミケーションも充分とはいえない状況であるが、休みの日には子供に父親の存在を忘れられないようにと、できるだけ子供と一緒に過ごすよう努めている今日この頃である。
 最近、犯罪の低年齢化がすすむなか、どうしてこんな残虐な事件が起こるのだろうと不思議に思うことがある。むしゃくしゃしていたから誰でも良かった、などというとんでもない理由で犯罪を犯す若者のニュースを見る度に、胸が痛くなる。
 都会では、昔のご近所づきあいがなくなり、隣に住んでいる人の顔も知らないことがよくある。実は、私もその一人であるが、昔は、自分の子供、他人の子供という分け隔てなく、悪いことは悪い、良いことは良いと注意していたという話をよく聞くが、今はそういう近所づきあいもなくなり、自分は自分、他人は他人という世の中に変って しまったようだ。
 なぜ、そのような変化が起こったのか、私なりに考えて見ると、生活水準が豊かになるにつれ、人間関係が希薄になっているのではないだろうか。昔は今ほど物があふれている時代ではなく、皆が団結し、助け合っていかなければ生きていけない世の中だったのが、今は、ほどほどの収入があれば、必要なものはすべて手に入るため、他人の助けを借りなくても生きていける。だから、煩わしい近所をわざわざする必要はない。というような考え方に変化しているように感じる。また、核家族化がすすみ、 地元を離れて生活する人も多いため、より一層近所付き合いが希薄になっているのだろう。どちらがよかったのかというと一概に結論は出ないと思うが、少なくとも、現代の生活においては昔ほど他人と触れる機会が少ないため、親の果たす役割が重要になってきていると感じる。
 そしてふと自分は父親らしくある信念をもって子供に接しているか不安に思い考えて見ると、時間が少ないわりにはパパっ子である娘は人を見て物事を言うようになり私には無理難題をいってきたりする。多少あまやかしたのがいけなかったのであろうか。育児雑誌によると3歳という時期は、第一次反抗期といわれているようで、親に対して反抗しているのではなく、自己主張を始める時期だそうだ。
 家の子供も自分でできそうなこと、興味のあることは自分でやってみようと思うらし く、はしを使ってご飯を食べようとしたり、お菓子の袋を自分で開けようとしたりする。決してうまくできるわけではないが、やろうとする気持ちが大事だと思うので、多少時間がかかっても応援してあげている。
 どこかで親が見ているから大丈夫という安心感を与えてあげて、いろいろなことに挑戦し、自分の才能を自由に伸ばしていって欲しい。
 一方で、父親としての威厳は必要だ。しかし、現状娘についつい甘くなってしまう私には、悪いことは悪いという毅然とした態度も必要であろう。
 とにもかくにも求めすぎず、期待しすぎず、じっくり楽しみながら子育てを続けていきたいと思う。
 明日は、子供のおゆうぎ発表会だ、出来栄えはともかく、終わったら誉めてあげたいと思う。

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