巻頭言 京大桂キャンパス開校
洛友会会報 203号


京大桂キャンパス開校

洛友会会長近藤文冶(昭18年卒)

 明けましておめでとうございます。年頭に当たり、会員各位並びにご家族ご一統様のご多幸を心からお祈り申し上げます。
 さて、京都大学では、昨年11月15日桂キャンバスの開校記念式典が執り行われました。新キャンパスは、国道9号線(京都の五条通りが西へ延び亀岡を経て綾部に至る国道)の北側沿いに、西山南端の斜面を利用して醸成され、広さ47haの竹薮に包まれた美しいキャンパスです。因に吉田キャンパスは約73ha、宇治キャンパスは21haであることから、桂キャンパスの広さが容易にお判り頂けると思います。阪急桂駅からバスで約17分の距離にあります。
 新しいキャンパスには大学院だけが移り、学部教育は従来通り吉田キャンパスで行われます。移転するのは工学研究科と情報学研究科です。
 新キャンバスには、図に示すように、A、B、C、Dの4つのクラスターが形成される予定です。現在完成しているのはA及びBクラスターの2つで、Aクラスターには、電気系2専攻と化学系6専攻の建物が建っています。Bクラスターには、管理事務棟やインテックセンター(Inttech Center)と称する専攻の枠を超えた総合的あるいは国際的なプロジェクトの研究棟及び福利厚生施設が建っています。
 移転の第一陣を承った電気系及び化学系専攻では、既に新キャンパスで研究や大学院の授業が開始されています。桂キャンパスは小高い山の傾斜地に広がっていて、キャンパス前バス停からBクラスターまで50メートル位の距離ですが、歩くと一寸とした運動になる位高低差があります。この付近は京都の中心部に対して可なり標高が高く、キャンパスの何処からでも市内を一望でき、素晴らしい景観を楽しむことができます。その上付近には、桂離宮、苔寺、松尾大社など著名な文化遺産や、さらには嵐山、大堰川、渡月橋など全国的に名の知られた景勝地が連なり、京都らしい優雅で静かな雰囲気に包まれ、研究・勉学にはこれ以上の土地はありません。
 この機会に、京大工学部新制大学院の沿革を電気系学科を中心にして簡単に振り返ってみましよう。
 京大では昭和24年新制大学が発足し、大学教育4年間の内、前半2年間は教養科目の教育、後半2年間は専門教育と定められました。旧制時代には、大学教育3年間は総て専門教育でした。したがって新制の発足により専門教育は1年間短縮された訳です。太平洋戦争でわが国は徹底的なダメ−ジを蒙り、荒廃し切った国土を復興させる方法は、工業立国以外に道がないとされていた時ですから、専門教育の短縮はわが国の将来を考えると容認し難いとする考えが支配的でした。それで専門教育を1年延長して大学を5年制にする案が浮かび上がりましたが、新制度が発足して未だ日が浅く、文部省に受け入れられなかったのです。そのため、大学院制度に研究生制度を併用して、全学生に3年間の専門教育を施してから就職させるという強引な方法を採った学科も2、3ありました。電気工学科では、5年制大学が制度として認められない間は、優秀な学生を大学院に進学させ、現行の大学院制度の中で対応すべきだとの立場が採られました。
 その後間もなく、疲弊していた日本経済は高度成長期を迎え、企業特に製造業は驚異的な躍進を遂げ、大量の技術者が必要になり、工学部はこれに応えるため、数年間に約3倍の規模に膨れ上がったのです。それに伴って、大学院の学生定員も増加しました。しかし京大工学部では、従来からの主張である専門教育強化の観点から、大学院学生定員のさらなる増加を要求しました。ところが文部省は他大学とのバランスを配慮して認めなかったので、法令を変えないことを条件に文部省の了解を得て、大学院修士過程の学生募集人員を正規の定員の1.5倍としました。法令を変えないことを条件にしたため、教官の数は勿論のこと、校舎面積、学生経費などの増加は一切なく、全てが工学部の犠牲において実施されました。一見強引と思われるこの措置は、日本経済がその後も高度成長を続け、遂に日本を世界第2位の経済大国に押し上げた産業界に対して大きな貢献を果たしました。
 ところが数年前文部省は、その後の世界情勢の進展に鑑み、日本が今後も世界の一流国に伍してリーダーシップを発揮するためには、研究においても人材養成においても、一層のグレードアップを図る必要があるとし、旧帝大を核にして大学制度の画期的な変換を図り始めました。すなわち従来は学部組織の上に大学院教育機構を設け、原則として教官の身分は学部に属し、その身分のまま大学院を分担することになっていたのを改めて、大学院中心の組織に切り替え、教官の身分は大学院に移し、学部は学生の基礎的教育のみを担当する組織に改めたのです。これに伴い学部学科や大学院専攻に大きな改編があり、電気系学科にあっては、平成7年4月、従来の電気工学科・電子工学科・電気工学第2学科の3学科編成から、電気電子工学科だけの1学科構成となりました。また大学院の専攻についても、電気系の一部の講座や研究部門は、工学研究科から離れて、新設された独立研究科である情報学研究科やエネルギー科学研究科に移管されるなど度々の変遷を経て、平成15年4月、電気系専攻は最終的に電気工学専攻と電子工学専攻の2専攻となりました。
 さて「京都には創造性を育む土壌がある」と言われています。具体的には如何なる要因があるのでしょうか。私見を述べてみたいと思います。
 京都は平安建都以来明治維新に至るまで千年を超える長い間、日本の王城の地として栄えた土地であります。その間栄枯盛衰はあったにしても、京都は長い間政治の中心で、優雅な宮廷文化に彩られた土地であります。また同時に宗教の中心でもあり、市内には神社仏閣が極めて多く、その広大な境内には、国宝あるいは重文に指定された豊富な文化財を保有し、歴史的価値の高い美しい庭園に囲まれています。京都は宮廷文化並びに宗教文化のメッカとして君臨してきました。
 次に、長い歴史の中で育まれた京都の文化の香り高い伝統工芸産業を、今日的な産業技術の視点から眺めますと、常に新しい素材を取り入れ、独創的な技術を開発した努力の結果として今日があるのです。一方、近代産業においても、京都は、日本の先頭を切って度々起業ブームを巻き起こし、その進展に大きな寄与をしてきた都市でもあります。すなわち明治初期、東京遷都で寂れた京都を再生するため、京都府は、明治4年京都舎密局や勧業場など近代産業の開発指導機関を設け、さらに明治10年ドイツ人ワグネル博士を招き、陶磁器、七宝、石鹸、ビール、顔料、耐火煉瓦、マッチ、ガラスなどの製造法や電気メッキ、石版印刷、染色などの技術の指導に当たらせました。この時期、京都には文明開化の気概か漲り、近代産業起ち上げのブームが起こったのであります。先年ノーベル賞を受賞した田中耕一フェローが勤務する島津製作所もこの時期に創設された会社です。
 その後、明治28年、疎水を利用した蹴上水力発電所が完成し、その電力を用いて、京都で日本で最初の市電が走り、また荒神橋のたもとに京都織物株式会社という名の日本初の織物工場が建設されました。この時期、京都は日本の本格的な近代化の牽引車の役割を果たしたのであります。さらに明治30年には京都帝国大学理工科大学が設立され、この気運を一層盛り上げました。この頃、京都に再び起業ブームが訪れ、日本の先頭にあって近代化に貢献しました。
しかし明治の末期から太平洋戦争の終了に至るまでの間、近代産業は軍需を中心にして展開しましたが、京都はその潮流に乗り切れず、京都の産業が再び花を開いたのは戦後のことであります。多数の京都生まれの中小企業が、戦後の荒廃の中から、独創的な技術を創出して起ち上がり、今日では世界市場で雄飛する大手企業に成長しました。これらの独創的な企業が京都に集中して起ち上がったのが、京都を訪れた第3回目の起業ブームでした。
 日本人は創造性に乏しく、外国の技術を導入し、これを改良することによって、世界の経済大国になったと批判されてきました。しかし上述の戦後における京都発の先進企業は、何れも創造的かつ個性的な技術を創出し、新しい産業分野を開拓した企業であります。このような企業が京都に集中したのは何故でしょうか。
 京都には創造性を育む土壌があると言われています。「山紫水明」「風光明媚」を枕詞とする景観に富んだ都市で、山あり川あり、豊かな自然に恵まれ、その上、長い歴史の中で育った文化遺産が至るところにあります。沈思黙考、思索に適したこれ以上の都市は他にありません。これが京都の創造性を育む土壌と言ってよいでしょう。また京都には京都大学を始め35に及ぶ大学が存在し、学問の都と呼ばれるにふさわしい都市であることも、独創性を生む学術的雰囲気の形成に役立っています。ノーベル賞受賞者が、京都で生活を経験した人達の中から多数輩出しているのもむべなる哉と思われます。
 長い間不況に悩んできた日本です。今こそ京都桂キャンパスから独創性豊かな学術が世界に向けて発信され、学問の都にふさわしい産学協同の実を挙げ、独創的、個性的な企業が多数日本から輩出して、4度目の起業ブームが京都を中心に巻き起こることを心から期待する次第であります。

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