会員の寄稿(2)  
洛友会会報 212号


京大大型計算機センター設立の頃

三輪 修(昭和34年卒)

 1959年卒業と同時に富士通に入社し、コンピュータの開発に夢中になっていたが、91年に仙台に赴任し、そのまま仙台での生活が続いている。この間東北大学の先生方とのお付き合いが増えた。昨年まで洛友会東北支部長として活躍された大家寛君は同期生である。その後を受けて支部長になられた伊藤貴康(62卒)さんから、洛友会会報にコンピュータ開発時代の話でも書いてほしいとのお話がり、キーを叩くこととなった。
 話は京都大学大型計算機センター設立当初に遡る。当時筆者は、国産初のICコンピュータで、二つのCPUを持つFACOM230-60(以下60)という超大型コンピュータの開発に着手していた。京大との強い絆がなければ、60の成功、ひいては富士通のその後はどうなっていたか。当時を思い出すたびに奇妙な戦慄を覚える。この機会に、その頃の京大と60の関わりの一端をご紹介したい。


(1) 初めに

 1967年4月4日、電算機課長の池田敏雄さんのお供をして京都へ向かった。京大における初の機種提案説明会は、京大と富士通が互いに心中を探り合う感じではなかったか。当時富士通はFACOM230-50を持っていたが、日立のHITAC5020に遅れをとっていた。その上HITAC5020はすでに東大で稼動していた。京大としても日立に決めればセンター開設後の気苦労も少ない筈だ。しかし東大の2番煎じは免れないだろう。京大の独自色を出すには日立以外で行くしかなかったに違いない。その日説明会を終えた後直ぐ帰京したが、その時はまだその後の急激な変化は予想だにしていなかった。
 実はその1年前、長尾真君や鷹尾和昭君に会い、60の構想と熱い思いについて語っている。また、60納入後、西尾英之助君と「障害」をテーマに生体コンピュータに繋がる議論をしたことがある。三人とも同期生であり、京大で教鞭をとっていた。


(2)機種提案説明会

 富士通はFACOM230-50での提案を止め、開発中の60でいく決断をした。その説明会前夜(67年5月13日)、池田さんと大阪営業所に向った。当時京都には富士通の営業所がなかったのである。コップ1杯のビールと簡単な夕食のあと、夜遅くまで翌日の「京大説明会」のための検討、資料作成そしてリハーサルを行った。本番さながらの熱のこもったリハーサルであった。翌14日は日曜日であった。大阪から京都へ向かい、京都ホテルで説明会の責任者である小林大祐さん(当時取締役・35卒)と合流した。説明会には富士通の他6社が参加した。富士通に与えられた時間は11時半から12時20分までであり、時間が来ると先生方が入室される前に、大急ぎで前夜作った説明用の紙を壁に綺麗に貼っていった。当時はパソコンはもちろんOHPもなく、説明会には大きな紙にマジックで書いたものを使った。池田さんの説明は、短時間に富士通の提案骨子、60を中心としたシステムの特徴を遺憾無く表明するものであった。説明会場には富士通のやる気と情熱が満ちており、その熱気は機種選定委員の先生方にも少しは伝わったのではないか。


(3) 内定に至るまで

 5月29日、京都大学大型計算機センター設置準備委員会第一小委員会の方々が、富士通川崎工場に来られた。林忠四郎委員長、西原宏先生、萩原宏先生他大勢の先生方が、工場見学(視察)のあと試計算に立ち会われた。それから10日後のこと、京大が60に決めたとの情報が飛び込んできた。夢が現実に一歩近づいたのか。6月12日京大が正式に60採用を決定し、機種選定委員会を解散したという情報が入った。もう間違いはないが、こうなると納期が大問題である。


(4) 京大側の思い

 待望の京大を受注したが、当時機種選定に関わっておられた萩原宏先生が、60決定までの状況を「京都大学大型計算機センター十年史」に書いておられる。そこには先生方の苦衷がにじみ出ている。HITAC5020Fが稼動実績があるのに対し60は試作中のものであり、先生方は大変困られたようだ。大学としてはセンターの運用開始時期が決まっているため、納期も大切な要件であった。60はいわゆるペーパー・マシンであり、その上ソフトウェアについてはかなりの問題があると認識されておられた。しかし、センター開設時には国産機としては最も新しい機種となる見込みであることと、ソフトウェアについては富士通の熱意を信頼し決断に至ったものと思われる。60が両者の運命を担うことになり、身の引き締まる思いであった。


(5) 京大センター運用開始

工場では60製造を最優先し、ハードウエアは何とか納期をクリアしたが、問題はソフトウェアとくにOS(オペレーティングシステム)にあった。68年の終わりが近づくにつれ、京大センターでデバッグに明け暮れるOS担当者の有様は、まさに戦士であった。このOSの開発でも京大の先生方による叱咤激励、ご指導、ご協力が大きな支えとなったのもありがたいことであった。
 69年1月、何とかセンターの運用が始まったが、当初はバッチ処理のみであった。6月頃石原センター長、丹羽義次先生がお揃いで当時の富士通岡田社長を訪問され「いつになったら約束通りソフトウェアが完成するのか」と激しく督促されたそうだ。10月、世界でも類を見ない2CPUマルチプロセッサによるマルチプログラミングの処理が始まった。
 国産コンピュータを育ててやろうという先生方の熱い思いを未だに忘れることはない。後年のこと、KDC-Tを開発された矢島脩三先生から“FACOM230-60は大変ご苦労様でした。私共も大変深い感銘をうけました。なにせPaper virtual computer をreal computerにされたのですから”とのコメントをいただいた。嬉しかった。

 *京大と60開発の詳細は、筆者のホームページ「私のコンピュータ開発史」参照
   http://homepage2.nifty.com/Miwa/



  ページ上部に戻る
212号目次に戻る



洛友会ホームページ