会員の寄稿(2)  
洛友会会報 213号


企業の社会的責任について

冨岡 洋光(平成2年卒)

 最近、仕事でCSRに携わるようになりました。CSRとは、英語の「Corporate Social Responsibility」の頭文字をとったもので、日本語では「企業の社会的責任」と訳されます。この「企業の社会的責任」というキーワードは、特にここ数年、国内で話題になることが多くなってきました。例えば、日経4紙(日本経済新聞、日経産業新聞、日経MJ、日経金融新聞)で「CSR」または「企業の社会的責任」という表現が取り上げられた回数は、平成14年では1年間で57回であったものが、平成15年は366回、平成16年は1372回、平成17年は1373回と急激に増加しています。
 CSRとは、企業は、法令遵守は当然のこととして、社会に役立つ商品やサービスを提供するという経済的責任だけでなく、人権保護などの社会的側面や環境保全などの環境的側面からも積極的に責任を果たさないといけないという考え方です。このCSRですが、ヨーロッパにおいて盛んに取り上げられるようになり、日本でも取り上げられるようになったものなのですが、単なる輸入された概念ではなく、日本人がもともと持っていた考え方でもあります。例えば、近江商人の「三方よし」という考え方があります。江戸時代、近江商人の行商は、他国で商売をし、やがて開店することが目標であり、旅先の人々の信頼を得ることが何より大切でした。その商売の心得として説かれたのが、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」です。これは、商売においては、当事者である売り手と買い手が満足するだけでなく、それが世間のためになるものでなければならないということを戒めたものです。
 では、なぜ最近になって、CSRが注目されるようになってきたのでしょうか。それは企業不祥事が頻発する中で、社会が企業を見る目が非常に厳しくなってきたということが大きいと考えています。集団食中毒を起こしたにもかかわらず適切な対応をしなかった雪印乳業やリコール隠しを行っていた三菱自動車は世間からの非難を浴びて会社存亡の危機に陥りました。最近では、耐震偽装されたマンションを販売していたヒューザー、死亡事故を起こしたシンドラーエレベーターの対応が非難を浴びています。これらの例でも分かるように、企業には「説明責任」が求められるとともに、「ウソをつく」「隠蔽する」ということが何よりも厳しく非難されるようになっています。さらに、単にルールを守りさえすれば、何をしても良いということではなく、企業にも倫理であるとか、一歩踏み込んだ対応が求められるようになってきています。アスベスト問題で工場周辺の住民に対してもいち早く補償を表明したクボタや、年末商戦の真っ只中にテレビCMを全てリコール告知に差し替えた松下電器の対応などに見られるように、企業としての社会的責任を果たして、社会からの信頼を得るには、これまで以上に踏み込んだ対応がとれるかどうかがキーになっています。
 仕事柄、業種を超えて様々な企業においてCSRや企業倫理の最前線で働いている方と議論する機会があります。そこでテーマになることが多いのが、企業としての社会的な責任をきちっと果たしていくためには、「組織としてのルール整備」だけでは十分ではなく、役員から現場第一線の従業員に至るまでの「一人ひとりの意識」の問題が重要であるということです。いかに素晴らしいルールを整備していたとしても、全ての業務についてあらゆる事態を想定したルールを整備することは不可能であり、実業務においては一人ひとりの判断が重要であるためです。クボタや松下電器の例は経営レベルでの判断ですが、もっと小さなレベルでもジレンマに陥ることがあります。そういった時に、どんな判断ができるかは「一人ひとりの意識」の問題です。これについては、企業側でも特効薬はなく、地道に教育・啓発活動を行っていくしかないというのが大方の見方です。
 伊藤忠商事の丹羽宇一郎会長は著作の中で「清く、正しく、美しく」と、よく仰っておられますが、まさに、そういったことが役員・従業員一人ひとりに求められる時代となったのです。そんな時代ですので、企業としても、一人ひとりの社会人としても「品のある行動」をとることを心がけていきたいと考えています。



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