名誉教授だより
洛友会会報 226号


時代と社会変遷の中で

坂井 利之(昭22年卒 京都大学名誉教授)

 現在は、日本での明治維新、昭和の第2次世界大戦での敗戦についで、平和の中でありながら時代と社会の大変遷期にある。
 数年・10数年前までの縦割りの科学技術分野が、今では多岐にわたり複合化・融合しているので、これからは研究開発に関わる人に限らず、多くの人々が2つの専門分野の知識を要望される状況になりつつある。そして、地球上の人々のその生涯を25年ごとに区切った学生期(がくしょうき)、家住期(かじゅうき)、林(りん)住期(じゅうき)、遊行期(ゆぎょうき)のどの期に該当するどんな状態の人(生・老・病−死)にも、大きい課題と対応を求めていると思われる。それが何であり、何を語ろうとしているのかを一緒に考えてみたいのである。

◆ユビキタス社会の到来
 変遷を一言で言えば、コンピュータ機能(CPU)の変革と万能細胞化である。1946年産声を上げたコンピュータが、在来の機械と異なった万能性をもち、プログラムですべての機能を表現でき、しかもその構成ブロックが、ハード面とソフト面の両方で、性能・素材・サイズ・形態・使い易さ・価格において間断ない進化・発展を続けた。さらに同質の機材でシステムを構築できる電気通信や放送とICT技術として融合して、インターネットのインフラとなり、その稼動範囲は、時間軸と空間軸のそれぞれで、大小の両方向に極限値近くまで拡大している。
 コンテンツであり、関与対象となるヒト・モノ・カネ・情報のすべてに、広義のIT技術が深く浸透した構造になっているので、このICTの作る環境は、生物界における万能細胞に該当し、いつでも、どこにでも、誰にもPCや携帯などで利用できる状況である。そこで、ユビキタス社会と呼ばれ、空気や水と同格の、人類に対する新しい環境因子となっている。
 日本のネット網で適用・応用分野の前にプレフィックスとしてeのつく名詞(例としてe-Tax、e-ラーニング、e-国政)は、一般(開放的)インターネット上で特定専用ネットを構成しているネット網である。アドレスの国際管理機構で定められたIPv6になると、アドレスの長さが128ビットあるので、対象物の名付けは実用的に万物をすべて扱える。
 ユビキタス社会では、IT技術のインフラ(通信・放送の管理・運営)とコンテンツ(作成と利用・アクセス権)を利用する立場からの一般的常識を人々が持つのは、数学や英語が出来ることを誰にも必須のことであるとするのと同等である。
 従って、誰でも出来ること、考えることから脱却して、他の人に出来ない創意、創出、創業をする能力を、学生さん(学生期)、企業や組織の各部署の人々(家住期と林住期初期)に求めることになる。一般論として、自分の分野と思うトコロでこれを模索し、そのモデルを自己流に仮設し、試行錯誤で構築してゆく。それがうまく軌道に乗ると生きがいと思うようになり、独自性がある人と周囲から認められる存在となるだろう。
 ユビキタス社会はグローバルであり、価値観も多様であって、すべての人々について、そのやり方、能力を評価し、受容できる分野や組織や人が、必ずどこかに存在し、接近してくるであろう。ユビキタス社会という新しいグローバル環境は、今迄のように既存の範囲に限られない、全く未開拓の新分野であって、柔軟かつ広大なことを信じよう。
 何かに興味を持ち、面白いこと、やってみたいことからやる心掛けと、努力、持続力が求められるのである。

◆行為・行動の着眼点
 社会や、組織は一人で成り立っているのでなく、多くの人々の共働体である。極めて多岐な社会組織の中から自分にふさわしいものをどうすれば見出せるかが問題になる。この根本に迫るには、私は、ユビキタス社会の本質、実体を分析・把握することになるモデルを作り、シミュレーションを行って、関連のある事実や例題が探せればよいのではないかと思う。
 ネット社会は、誰でも、どこへでもメールできるのであるから、製造業・サービス業・販売業は勿論、あらゆる所にコメントや苦情が届くこともあろう。また、メーカーも、社内で企画・設計さえしていればよいという訳ではなくなる。製品やシステムのテスト現場、改良や性能のテストを行って、地域住民・設置場所・評価コメント・意見などを求めるなどの場面が多くなる。相互対話力の他に、当事者・関係者の印象をよくする感性が大切となる。
 日本では少子化社会、高齢化社会と言われているが、それは数年、数10年で対処できる事柄ではない。さらに、地球温暖化、環境問題、海外情勢などの問題もある。これらの関連性のあるモノ・コトをテーマとした長期的なプロジェクトの中で、自社の提供するシステムや素材の担当となる人もあろう。産・官・学・民どこにも役割があり、相互に関連性がある。技術的開発・製造・経営的判断、企画技術・現場での試行実験となると、地方自治体の指導、病院等現場の意向も大切である。
 しかも個人の価値観、人権、安心の大切さと共に、公共的なルールや法律の制定・遵守、安全の確保の必要性は言うまでもない。そのどれかが欠けても、よい結果に繋がらないだけでなく、大きいリスクになることもある。
 身体障害者・要介護者とそれらの人に対応する器具、機械の親身になった優しいシステム設計、そして安全・安価な開発、改良などと並んで、使用・行動空間に適応する、妥当な知的ソフトの設計、機器、ロボットの提供が望まれる。そのようなサービス業が成立し、広がってゆくのではなかろうか。

◆大学の効能・友人の発見
 私はここで、学生として学生期の終りの頃の方々、また家住期の初期で、現場の技術者・研究者の方々には、表面に現れていることだけを見るのではなく、もっと深く、心から見る目と心を養って欲しいと思う。
 ペットに餌をやる。草木に水をやる。何も思わず、その生物の欲していること、言いたいことを観察し、鳴き声、動作、こちらの行った動作の後の状況をよくよく見て、何を訴えようとしているのかを把える努力と心眼を持って欲しい。
 森羅万象、すべての心を感じ取って、その求めに対応する動作こそ、本当の動作なのである。人間同士の会話においても同じである。学生期、家住期の初期に、相手の言葉・態度から、その真意を探せるようにいつも心掛けていると、だんだん訓練されてくるのである。
 大学の授業で学んだことで、それが以後発達した状態に接した時に、新しいことであっても、馴染みがあって難しいと思わないことが多い。この意義は大きい。また、同期でよく知っている友人が、ある方面の研究・開発・セールスで注目を浴びるようなことをした時に、「あのクンがやったのだから自分にも出来る筈だ。やってみる」という気持と努力の力が生じてくることが大きい。同じ卒業期の人、同じグループの人から、同じような人物が輩出するのは極めて自然である。
 自分のやりたいコト、興味のある分野では、その道の達人と思う人や先輩と、できれば起居を共にしたり、長期旅行などをする機会が与えられれば好ましい。どんな時、どんな発言や行動をされるかを、よくよく観察するのである。スポーツで自分の目指す人から、習いたい技術をヌスムとよく言うが、現場における観察からは、心掛け、知りたい極意が得られる。同様に、あこがれの人、その道の達人と同じ行動の場に居れる努力は、ネットワークから得られない情報、真の情報を得る道に通じるのではないかと思う。

◆ あとがき
 京都大学電気・情報を停年で退官して20年余。二度目の現役、私立大学で理工学部・大学院の創設・完了後に退職して10年余。停年退職してからのスタイルは、ノータイと帽子と心得ている。生・老は充分の時間をすぎ、病は学生時代からあって、今では定期的に月1回薬もらい。大病院でも、2泊3日の人間ドック(2〜3年毎)でも見付からなかった未病が、ひょんなことから個人医と知り合い、その先生の初期施薬でより健康体になった。近隣に室内プールが開業したので泳ぎを学生期以来再開した。毎月3回以上、1回1000mを無理せず続けて、20年足らずで延730kmになる。
 医院での時間待ちの時間、個人商人がよく持っている新書版の本や通帳が入るカバンの中に入れて、読んだのが五木寛之の「林住期」(幻冬舎文庫)。私はもう75才の林住期も過ぎて遊行期。ここ1年位は老齢化の特徴で物覚えは悪く、難聴も月日と共に進展が自覚できる。そんな時に、幹事さんから洛友会報への執筆を頼まれた。もう何もかも引受けない、引受けられないと思っていたのに受けることになった。さて何を書くか、何を言いたいかを考えて書き出し4週間位になる。遊行期に入っているのに、学生期、家住期の人のようなことを考え、自分ではコレと思ってモデルを構築している。それは学生時代から、ずっと同じ地域に住み激動期に対処してきたからである。
 地域・社会・経済・法律のことを素人ながら、広くそして自己流に考えていて、具体化の方策と過程も含まれている。「老人が何を言ってるか!」と一笑に付される類ではあろう。
 今どき、1・2年先など判らない。サブプライムローンのようなリスクの追跡・評価も難しいという専門の人々が多い。そんな中でも、20年・30年ものローンで固定か変動利率の何れかを決めないといけない一般の人々。
 ユビキタス技術は便利であり、人間技では出来なかった事は出来るし、個人が大変なコト(事業・ワザ)もやれて億万長者になっている人もいる。
 プラスにIT技術を使い、学生期に本当のコトを言い合い、一緒に共同の活動もでき、話し相手になる友人を探せるのが、大学であり同窓生である。「以心伝心」でのコミュニケーションの友は、実空間で一緒に勉強しているとき、師や先輩から学び取り、自分のものにすることも学生期、家住期の初期であると思う念が益々強くなるのである。



 

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